環境を回復するための農業 5.農業機械

環境を回復するための農業 3.有畜複含農業

3-1.有機農法

 有畜複含農業は、どうしたら有機農法に近づけるか、どうしたら無肥料・農薬不使用栽培に近づけるか、を模索してきた現状がある。日本では古来から「田んぼは肥料をやらなくても7割はとれる」という言い伝えがあった。引き込む水に養分が多量に含まれているからである。しかし、そのような条件のよい幸運な水田ばかりとは限らない。有機に切り替えて1年目はすばらしい成果をおさめる。3,4年目にはたいして成果は上がらない。5,6年目には、おかしい、ということになる。

 専門家はこの頭打ち現象をミネラル不足とみている。有機農法で使用する草食動物の糞尿堆肥や刈敷農法の腐植土は、もともと植物の組織で、ミネラルは十分に含まれているはずである。それなのに、農地から吸収した養分以上に肥料が必要なのは、ミネラルが農地から大量に流出しているからである。その理由はキレートの影響である。有機農法では、肥料の中に有機酸やアミノ酸などのキレート剤がたくさん含まれている。これは通常では、土壌の中の微生物が吸収して保持されている。ここで土を耕すと、微生物は活発になり互いに殺し合うので、このキレートミネラルが土壌から流出してしまう。そこでミネラルの適切な施用が行えるよう土壌分析を勧めている。(6)191

 ※土の生成は、風化作用によって岩石(土の母材)が、細かく砕かれたところに、原始的な下等植物や微生物が棲みつく。それらの遺体は、微生物によって分解され、植物の栄養分になる。この栄養分があることによって、より高等なコケや草が侵入する。コケや草が入ってくると、これらの遺体が、微生物に分解されて栄養分がさらに増え、土の動物が動物が棲めるようになる。土の動物は、分解された植物遺体をエサにして生き、死んでいく。高等植物が枯れて遺体になるということが繰り返されると、母材に蓄積した有機物と、岩石(土の母材)とが混じり合った土の表層が出来上がっていく。(6)p196しかし、土の母材が同じであっても、環境条件が違うと、出来上がる土は違ってくる。(6)p199例えば、気象や地形、立地条件、施肥や栽培技術、さらに作物の種類や品種の違いなど、多くの環境要因が関与している。(6)p96高品質で栄養価の高い生産物が収穫されたとしたら、どのような条件でそうなったのか、その条件をつくり出すにはどうすべきか、そういうことを考える。それは、どのような過酷で劣悪な土であっても、作物のできる土、人々が心豊かに暮らせる土に変えることができる(7)p99、という認識につながると同時に、「農地とは自然環境を破壊して、人が切り拓き、作物を栽培するためにつくられた土地で、人類がおこなった最初の自然破壊である。」(7)178ということをも理解できる。

引用文献・参照文献

(5)槌田敦「地球生態学で暮らそう」ほたる出版 2009年

(6)松中照夫「土は土である」農村漁村文化協会 2013年 

環境を回復するための農業 2.自営就農ネットワーク

行政‐民間企業‐自営業

 就農計画とは、こちらから具体例を示すことである※(1)。ありえない就農計画になってはいけない。就農支援に対応するためのネットワークが必要不可欠。当然ながら、連携すべき相手は行政だけではない。ネットワーク協議会の立ち上げや民間企業との連携を模索すること。「作っていただけませんか」「一緒に農作業に参加して頂けませんか」「農業研修を一緒にやりましょう」など粘り強いアプローチを続けること。(3)

 普段から様々な職種の人たちと交流することの重要性である※(4)。

 雇用研修から自営就農時を想定して、マニュアル化、そして農業実習をしておくことは重要だ。しかし、それらはすべてリアルでなければ意味がない。たとえば、農地のライフラインの初動体制は、「誰が」「どのような手順で」行うか。必要な農業資材は、「誰が管理し」「どこに配備」するのか。

 農業実習とは、その極めてリアルなマニュアルに基づいて、極めてリアルな実習を積み重ね、ほんとうに機能するのかを検証することである。

 ※(1)就農形態、営農類型、目標農業所得、目標労働時間、作付面積・生産量、機械・施設、事業費とその調達(経営開始5年後の目標を記入)について、こちらから具体例を示すことである。

※(4)農産園芸福祉の考え方は、「さまざまな能力をもった人が、畑などのフィールドで植物栽培を軸に協働することで、収穫物に始まり、体力の維持や知識、人とのつながりなど恩恵を得ること」である。

 

引用文献・参照文献

(3)石井正「東日本大震災石巻災害医療の全記録」講談社2012年

(4)豊原憲子・石神洋一・宮上佳江「福祉のための農園芸活動」農村漁村文化協会2007年

環境を回復するための農業 1.就農支援策

就職就農‐自営就農

 私自身の就農支援策として、第一に技術力が十分かどうかを考える。上手に栽培するのが、何より難しい。これについて、新規就農研修制度があるところは、実際に居住し、日常生活を送って就農する。技術習得の期間をどのくらいと見極めるか、ということから、就農計画は始まる。

 非農家の自営就農とは、農業法人等への就職就農から自営就農へと円滑に移行することである。自営就農希望者は、従業員として雇われながら、生活を送るという農業研修を選択することになる。この際に「農の雇用事業」を申し出て、雇用主に補助金が交付(月額10万円)される手続きがある。(1)

 次に資金をどう工面するかを考える。2017年1月現在、家賃4万円、電気ガス代1万円、食費3万円、燃料経費2万円で生活できている。露地栽培の場合、初期投資4百万円と試算される。仮にアルバイトの場合、自給9百円の8時間労働で20日働いても、月収入14万4千円となる。月4万円貯蓄しても、8年4ヶ月はかかってしまう。これが就職雇用の場合、月給がおおよそ17万円前後で、月7万円貯蓄しても、約4年10ヶ月となり、技術研修期間ともほぼ合致する。(4年~6年は見積もる必要がある。)

 しかし、施設栽培の場合、ビニルハウスの強度が求められるため、①ハウス設置②水道工事③電気工事で、1千万円(自己負担4百万、補助金4百万、残り施工費)もの初期投資が必要との試算がある。(1)

 そして、土地をどう確保するかを考える。農地集積バンクとは、高齢化した農家や農地を相続して耕作しない「土地持ち非農家」などの農地をバンクに集め、新規に農業を始めたい人や企業に貸し出す新組織である。(2)

引用文献・参照文献

(1)資料「就農準備講座」公益財団法人滋賀県農林漁業担い手育成基金 2017年

(2)小島希世子「ホームレス農園」河出書房新社 2014年

 

 

矛盾

「矛盾」シモーヌ・ヴェーユ【重力と恩寵】p172 春秋社

 ほんとうの善はどんなものでも矛盾する条件を伴う。だからその結果、不可能である。注意をこの不可能にほんとうに集中し、そして行動する人は、善を行うんだろう。矛盾はピラミッドの頂点である。(1948) 

 わたしたちはこの世には善はないこと、この世で善と見えるものはすべて有限で、制約されていて、尽きるものであって、一度尽きるとその必要性をむき出しにするものだということを知っている。多分すべての人間の生涯には、この世には善がないことをはっきりとみとめた瞬間が、いくつかある。けれどもそういう真実を見るや否や、嘘でそれをおおう。この真実に向い合うと重大な危険にさらされることを感ずるのだ。それをあらわすギリシャ語は、[hupomene]で、patientia(忍耐)というその語訳はかなりまずい。これは待つことであり、いつまでもつづいて、どんな衝撃にも動揺しない注意深い忠実な不動性である。Simone Weil「Attente deDieu」(1950)p186

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道をそれて

 「道をそれて」ゲーリー・スナイダー 【ノー・ネイチャー】p197 思潮社

 ぼくらは 岩場の上 木立をぬけて どこに道をみつけても良かった 道なんて全くないところに 山の稜線と森とが ぼくらの眼と足の前にその姿を現す そして昔学んだ行動の知恵が指し示すまま 野性がぼくらを導くに任せる ぼくらは 前にもここに来たことがある 行く道が 決まっているところを歩くより このほうが なんとなくもっと懐かしい 途中で行き止まりになっても それはそれなりに面白い 通り抜けられたらすごくうれしい 道草や迂回をすれば丸太や 花がみんな見える 鹿の道はまっすぐ上がり 横切るのはリスの道 倒れ木の幹に座って一休み 岩底に降り立ったり 斜面に沿って曲がったり どちらも選択しているのだ 今は道を分かっても 後でまた再び出会う そしてぼくらの踵 膝 肩 腰は みんなその場所を心得ている 道が大事なのではない どの道を行っても行きたい所へは行けないだろう ぼくらは道を大きくそれてしまった 岩を超え 森に分け入っていくこの散歩の (1992年)

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空き地

 「空き地」レオナルド・アモローゾ

            【弱い思考】p222 ジャンニ・ヴァッティモ他 法政大学出版

 杣とは森の古い名称である。杣にはいくつもの道があるが、それらはしばしば草木に覆われており、森の奥で不意に途切れてしまう。それらは杣道と呼ばれる。木こりや森番は、これらの杣をよく知っている。彼らは杣道を辿るとはどういうことか知っているのだ。ただし、杣道は否定的な意味での誤った道ではないし、目的地のない道でもない。森の中心という目的地があり、そこで杣道は途切れるのだ。この森の中心が開かれ=空き地にほかならない。しかもそれは、自らの住まいを捨てたのち到着する、外部の目的地や遠く離れた場ではなく、つねにすでに近くにあるのだが、森の奥深くに分け入ったとき、まれに、しかも、きまって突然に見つかる場である。(1983年)

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